|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 王 : [おう] 1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) ・ 勇 : [ゆう] 【名詞】 1. bravery 2. courage 3. heroism ・ 北 : [きた, ほく] (n) north ・ 周 : [しゅう] 【名詞】 1. circuit 2. lap 3. circumference 4. vicinity 5. Chou (dynasty)
王勇(おう ゆう、生没年不詳)は、中国の西魏・北周の軍人。もとの名は胡仁。本貫は代郡武川県。 == 経歴 == 北魏の永安年間、万俟醜奴らが関隴で乱を起こすと、王勇は官軍の募兵に応じて従軍し、功績により寧朔将軍・奉車都尉となった。また侯莫陳悦・賀抜岳の下で征討にあたり、別将となった。 534年(永熙3年)、宇文泰が丞相となると、幕下に召されて帳内直盪都督となり、後将軍・太中大夫の位を加えられ、包信県子に封ぜられた。535年(西魏の大統元年)、爵位は侯に進んだ。宇文泰の下で竇泰を討ち、弘農を奪回し、沙苑の戦いに参加して、功績を挙げた。爵位は公に進み、鎮南将軍に任じられ、帥都督となった。趙青雀の乱を討って、功績が最も高く、衛大将軍・殷州刺史に任じられ、通直散騎常侍を加えられ、太子武衛率を兼ねた。 543年(大統9年)、邙山の戦いにおいて、王勇は決死の士300人を率い、突撃して殺傷する者が多く、東魏軍もあえてこれに当たろうとするものがなかった。この戦いは西魏軍が敗れたが、王勇と王文達・耿令貴の3人は奮戦して、殊勲を挙げた。軍を返すと、上州の刺史に任じられることになった。雍州・岐州・北雍州の刺史の任が王勇ら3人に当てられることとなり、くじ引きをしてこれを決めた。王勇が雍州を、王文達が岐州を、耿令貴が北雍州をえた。王勇(本名は胡仁)の名を勇とし、耿令貴の名を豪とし、王文達の名を傑として、その功績を顕彰した。 547年(大統13年)、王勇は大都督に任じられ、使持節・車騎大将軍・儀同三司に転じた。549年(大統15年)、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。554年(恭帝元年)、柱国の趙貴の下で柔然を撃破し、追撃して家畜数千頭を奪った。爵位は新陽郡公に進み、庫汗氏の姓を賜った。556年(恭帝3年)、六官が建てられると、王勇は稍伯中大夫の位を受けた。また柔然を討った功により、永固県伯の別封を受けた。まもなく位は大将軍に進んだ。557年(北周の孝閔帝元年)、岷山の羌の鞏廉倶和が乱を起こすと、王勇は軍を率いてこれを平定した。 王勇は勇猛であったが、功績におごって、人の短所をあげつらう悪癖があり、憎まれることも多かった。柱国の侯莫陳崇が、諸将らとともに王勇を衆人環視の中で辱め、王勇は恥辱のあまり病床に臥せった。背中にできものができてまもなく亡くなった。 子の王昌が後を嗣ぎ、官は大将軍に上った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王勇 (北周)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|